FC2ブログ









スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-)

「/」~Slash~ SIDE-A 

 ちょっとした事情があって、昔の作品をアップです。
 作成時期は2005年。八年前か……驚きだ。もうそんなに経ったのか。
 こうして改めて自分の過去作品を見直すと、当時の自分の価値感がうっすらと見えて来ますね。恥ずかしさと懐かしさが込み上げてきます。

 本作、元々は一本の短編として書いたのですが、第一回ポプラ大賞向けにエピソードを追加し、結果こちらがサイドAという枠組みになったという経緯があります。
 まぁ、今後この作品が日の目を見ることも無いでしょうから、一つの思い出として残しておきましょう。

 ちなみに、ライトノベルではありません。一応、そういうつもりで書いた作品でした。
 閉じた瞼に光が当たるのを、私は感じていた。
 遠くから聞こえてくるカラスの鳴き声。すぐ側から聞こえてくる、不定期なブラインドの揺れる音。遠慮がちに入り込んでくる風は柔らかく、肩まで届く私の髪を揺らして、首筋を擽る。昼休みの社内は、就業時と同様に静かだった。違うのは静寂の質。今の静寂は緊迫感など欠片もない、穏やかな時だ。
 目を開け、椅子から立ちあがる。
 ブラインドの傾斜は中くらい。日を完全に遮るわけでもなく、全て通すわけでもない。
 ブラインド越しに覗き込んだ外は、並行に等分された世界だった。それは、私と外界を隔絶し、私を苦痛のあまりに狂わす線の群れと、とても似ていた。
 だからかもしれない……眼前に広がる景色が、やけに陰鬱なものに感じられたのは。
       *         *          *
 存在する価値を見出すことが、どうしても出来ないものが幾つもある。考えることも嫌なそれらの中で、筆頭に立つのが部署の慰安旅行という奴だ。集団でバスに揺られ、忘年会と内容が何ら変わらない宴会を開き、したくもない観光を強制的にさせられる。これをどうして慰安と呼ぶことが出来ようか? 他人と共に行動することを何よりも嫌う私にとって、拷問以外の何ものでもない。
 慰安旅行が如何に無意味かつ、有害なものであるかを一人頭の中で論じながら、私は窓の外を流れていく景色を眺めていた。後ろの方で新入社員や比較的若い社員が何やら楽しげに話をしている。年配連中も釣りだとかゴルフの話を自慢げにしている。バスと名付けられた空気の濁った凶悪な密室の中、私は早く目的地に着くことを独り願っていた。
 本当なら、慰安旅行など来たくはなかったのだ。可能ならば、愛車でドライブを満喫していたかったのに……部長命令だから仕方がない。私はこれでも従順な方なのだ。上司の命令には、余程のことが無い限りは逆らわない。
 トンネルに入り、外が暗くなる。窓に、化粧の薄い私の顔が映った。唇は、紅が塗ってあるとは分からない程に淡い桃色をしている。化粧をすることが自然になってしまったのは、いつからだろうか。自分の外面を飾り立てることに、抵抗を抱かなくなったのは何故だろう。昔は、あれほど否定していたというのに。私には分かっていた筈だった。どれだけ外見を取り繕おうと、根本的な内面の闇は変わらないということを。そして、誰もが闇を抱えている、ということを。
 きっと、これが順応するということなのだろう。自分の意識に関係なく、人は世間に呑まれていくのだ。自分らしさを失って行く。それが、大人になるということなのだ。
 憂鬱の溜息が漏れる。強制的に有給休暇を使わされた為に、旅行は二泊三日と無意味に長い。地獄とも思える三日間を想像して、私はやりきれなくなった。
 バスがトンネルから出て、眩い光が視界を覆った。その鮮烈な光が、私には沈みきったこの心を皮肉っているように思えた。
       *         *          *
 中々立派な宴会場だった。旅館のランクからすれば、無理をしてるんじゃないか、と思える程だ。
 私は集団は嫌いだ。集団で酒を飲むのが特に嫌いだ。連帯感という言葉があるが、私にしてみれば、あれは弱さの代名詞でしかない。
 乾杯の音頭が取られ、それぞれがジョッキに口を付ける。女性社員の半分はワインやらカクテルやらウーロン茶などを飲んでいる。残りの半分は、私を除いてビールだ。最初はビールというおきまりに従う連中もどうかと思うが、カクテルなどから始める人間も気に入らない。彼女等は日本人の気質というものを知らないのだろうか? 何事も皆一緒、目立つ奴はハブにする。社会に出たからには、嫌でもこれに従うのが大人というものだ。
「初っぱなから日本酒ですか? 渋いっすねぇ」
 横で新田が素っ頓狂な声を上げる。今年入ったばかりの新人だ。殆ど話したことはないが、やたらに元気の有り余っている奴、という印象はある。部署の女子どもの密かな人気を集めているのが頷ける程度に、顔は良い。ちなみに、こういった情報は更衣室にいると自然と耳に入ってくるものだ。
 私は日本酒の入ったグラスをテーブルに置き、正直面倒くさかったが新田の方を横目で見た。長々と相手をするつもりはない。ただ、日本酒イコール渋いという固定観念にまみれた考え方が、癪に触った。
「日本酒しか飲めない。それだけ」
「そうなんすか。実は俺もポン酒党なんすよ。気ぃ合いますね」
 にこやかに新田が笑う。こいつ、確か文系の筈だ。なのになんだ、この体育会系の喋り方は。それに、私が日本酒を飲んでいるのを見て渋いとか言いながら、自分も日本酒派だと? それは何か? 自分って渋いでしょ、ってことを言いたいのか?
「合わない」
 言って、私は正面に視線を戻した。酒は好きだ。が、人と話をするのは嫌いだ。それが分かっているから、他の連中は私に話かけて来ない。仕事中でも、余程の用事がない限りはそうだ。それをこの新人は、へらへらと軟派な笑い方しながら話し掛けて来やがって。
「三沢さんって、クールっすよね」
 冷たくあしらわれたことを気にした様子もなく、新田は言った。こいつ、私が話し掛けんなオーラを出してることに気付いてないのか? しかも、よりにもよってクールだと?
「なんか、職場でも凄い話し掛けづらい雰囲気ありますもんね。孤高の狼って感じっすよ」
 独身女を狼に例えるとは何事だ。私は決して獲物(おとこ)になんか飢えてないぞ。例えるならせめて、孤高の猫にしろ。小判(カネ)になら飢えてるから。
「物静かで、落ち着いてますし――」
「昔よく、根暗女と言われた」
 しまった。つい口を出してしまった。完全に無視するつもりだったのに……それになんだこいつ。黙り込んだと思ったら嬉しそうに笑いやがって。勝ったとか思ってやがるのか?
「中学までは苛められてたしな」
 新田の顔がむかついて、困惑する顔が見たくてそう言ってしまった。こういうことを言われると、大概の人間は興が削がれて黙り込む。同情されるという最悪の事態も想像されるが、そうなったら黙って席を立てばいいだけだ。
「あ、俺もっすよ。よく蹴りとか喰らってたっけ。ホントに気ぃ合いますね」
 あはは、と気持ち良さげに笑いやがった。盛り上がる話か、これ。
「何で苛めとかってあるんすかね。痛いだけじゃないすか。あれって、大人がやれば犯罪っすよ。子供だとそれが許されるってのも、変な話っすよね」
 悔しいことに、その話題は私の興味を引いた。人間の精神の動き、生きててこれ程面白い対象はない。
「苛めは大人でもある。ただ、年を喰えば喰っただけ陰湿になって、目立たないだけ。子供は頭が悪いから、暴力しか他人を傷つける方法が思いつかない」
「そういうもんすか? でも、金とか取ったりするじゃないすか。今の三沢さんの言葉だと、相手を傷つける為に苛めが生まれるみたいに聞こえますけど、強請りは営利目的の暴力だと思いますよ」
 成る程、一理ある。だが、私の理屈から言えば、金を取った時点でもう苛めじゃない。
「犯罪だ。苛めという名のオブラートに包んだ、社会悪だ」
「あ、それ言えてますね。じゃ、苛めの原因ってなんすかね?」
「あれは依存関係に過ぎない。苛める側が、苛められる側に精神的に依存している。相手を傷つけることで楽しみを得、それによって自分の存在する意味を確認してる。独りだけでは己の価値を見出せないあまちゃんどもだ」
 自分よりも下の存在がいるということを実際に確認しなければ、自信を持って生きていくことのできない人種がいる。自分の思い込みだけで自信を保てるような自意識過剰なタイプは、まだ可愛い方だ。つまり、私は可愛い人間ということだな。
「はぁ。何となく分かります」
 本当に理解してるのか、新田は首を傾げながらそう言った。その時になってやっと私は気付いた。話をしないと決めていたのに、随分と多く喋った気がする。馬鹿みたいだ。
 苛立ちを紛らす為に、私はバックから禁煙パイポを取り出した。口に咥えて吸い込むと、ハッカの香りが口中に広がる。日本酒の風味と混じりあい、最低の味がした。
「禁煙パイポ……珍しいっすね。禁煙でもしてるんすか?」
「去年、父が肺癌になった。それで初めて、煙草が身体に悪いと知った」
「常識っすよ」
 呆れたように新田は言う。残念ながら、私の常識には煙草が害悪であるというものは無かったのだ。知識としては理解してたが、現実味の無いことだった。
 先程戒めたばかりだというのに、また喋ってしまったことに気付く。酔ってきたせいだろうか。酒は好きだ。けど、はっきり言って弱い。好きこそものの上手なれ、とは言うが、先天的な要素が多分に影響を与えるこの問題に関しては、そうもいかないのが悲しい。
 突然、場の一部が騒がしくなった。見ると、部長が立ち上がり、何やら話し出そうとしているところだった。
「部長、異動しちゃうんすよね。せっかく仲良くなったのに、寂しいなぁ」
 新田がいかにも悲しそうにそう言った。とても本心とは思えない。確かに、部長と新田が楽しそうに会話をしている所は何度も見たが、たかが一年の付き合いでどれほど感情移入が出来ると言うのだ。
 部長は次の辞令で昇進することが裏で決まっているらしい。皆「おめでとうございます」とか言っていたが、本気で祝ってやっている人間が、果たしてこの部署にいるだろうか。人は、基本的に利己的な生物だ。第一に自分、第二に自分の所有物、第三になって、やっと自分にとって好感の持てる人物が来る。部長などという対岸の生命体に真心からの祝意を持てる人間など、いる筈がない。たとえ本人が心から祝ってあげていると思っていても、それは心の底の自分が、表面の自分を偽っているに過ぎないのだ。
「そう? あの人の、文字と呼ぶのも恐れ多いような記号の羅列から解放されるかと思うと、胸がすっとするけど」
「確かに、部長の字って汚いっすよね」
 笑いながら、新田が言った。危うく私の唇も笑みを作りそうになって、引き攣った。本当になんなんだこいつは。能天気そうに笑いやがって。私まで引きずり込まれる所だったじゃないか。
 周りが静まり、部長が話し始める。長年共に働いてきて本当に楽しかった、とか、私がいなくなっても皆さんならば立派にやっていけるでしょう、とか、去り行く老兵の言葉としてはありきたりな台詞が並べられていく。入社してから三年経つが、この部署の飲みは少しおかしいといつも思う。常識的には、主役の挨拶は最後に持ってくるものだろう。それを飲み会の序盤に持ってくるのは、一体どういう理由だ?
 前歯で挟んだパイポを上下に揺らしながら、私は毎度頭をもたげる疑問の答えを考えながら、部長の挨拶を流し聞いていた。
 部長の挨拶が終わると、再び宴会独特のざわめきが耳を覆い始める。隣で新田は、何か考えことをするように黙り込んでいた。先程までの元気の良さから見ると、異様な沈黙に思えた。静かに酒を飲めると思うと嬉しかったが、何故か新田の様子が気になって顔を向けてみた。
 新田は、俯いていた。頭痛でもするのか、目元を顰めて歯を噛み締めている。そこまで苦痛を表に出されると、幾ら他人に無関心な私でも無視はできない。
「頭でも痛いのか? 無理せず、寝たらどうだ」
 新田が横目で私の方を見る。苦しげに細められた双眸を向けられて、何故か私は背筋に悪寒を感じた。
「大丈夫っすよ。ちょっとした持病っす。しばらくすると治るんで、心配無用っすよ」
「そう……か?」
 納得できなかったが、新田の目を見るのが嫌で、私はすぐによそを向いた。しばらく新田は苦しんでいたようだが、二・三分後には元のうざったいくらいの元気を取り戻し、私に話し掛けていた。
「そういえば、彼女、凄いっすよね」
「彼女とは誰だ?」
 問い掛けながら、私は新田の目線を追う。そこには、藤堂という女子社員が座っていた。明るい感じで、男性受けの良い美人だ。新田と同期の筈だった。
「藤堂さんです。彼女、九歳から十八歳までアメリカで過ごしてたらしいんすよ。俗に言う帰国子女っすね」
 私には、新田の言葉の意味が良く理解できなかった。
「何が凄いんだ? 私なんか二十年以上日本で過ごしている」
 すると、新田は目を瞬かせて、それからやけに力を込めてこう言った。
「だって、彼女はアメリカっすよ? かっこいいじゃないっすか」
「私なんか日本だ。粋だろ」
「……」
「……」
 駄目だ、何かが噛みあっていない。私が日本で二十五年も生きていることが凄いのは分かるが、何故アメリカで九年過ごしたことが凄いんだ? こっちは二十五年だぞ。日本の人口約一億の中で、その内の何パーセントかは二十五になる前に事故や病気や変質者などによって命を落としてるのだ。その何パーセントから逃れた私は、ラッキーだろう。
 いや……待てよ。アメリカの方が一般的に治安が悪いとされていることを考えると、新田の言ってることの意味も理解できるな。アメリカで九年、死亡率を比較すれば確かに凄いかもしれない。
「やっと、お前が何を言おうとしてるのかが理解できた。確かに凄いと思う」
「でしょう? アメリカで九年なんて、中々いないっすよね」
 嬉しそうに言う新田に、私は頷いた。
「いないな。きっと、藤堂は強い運の持ち主なんだ」
「やっぱ、生まれた環境の違いなんすかね。親とかが海外赴任するとああなるんでしょうね」
「先祖が良いのかもしれない。守護霊は大事な要素だ」
 やはり何かが噛み合っていない気がしたが、私達はそんなどうでもいいような話をしていた。と、不意に新田が話題を変えた。
「三沢さん、結構もてるんじゃないすか?」
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。もてる? 何を持てるんだ? 金か……金ならあまり持っていない。守護霊だろうか? 自慢じゃないが、私の守護霊は神風特攻隊で爆死したじいさんらしい、ということを駅前の妖しげな占い師が言っていた。
「神風だ。かっこいいだろう」
「たぶん、全然違うこと考えてますよね。俺は、三沢さんが男にもてるって話をしてるんすよ?」
 内心がっくりしながら、私は一応答えておいた。
「全然」
「そうっすかねぇ。絶対、クラスに一人は密かに三沢さんの事が好きだった奴って、いたと思いますよ。現に俺、三沢さんのこと好きっすもん」
 急に、宴会の座が静まり返った。何故だ? 何故ここで狙ったように静かになる? それに、女どもの目が私を睨んでいるように見えるのは気のせいか?
 周囲の変化など気付かないように、新田は独り言のように呟いた。
「そっか。今気付いた。俺、三沢さんのこと好きだったんだ」
「……」
「付き合って下さい」
 何と答えていいか分からなかった。別に、どきどきしたとか、そういうことは全くない。ただ、今まで愛の告白など受けたことがないから、断り方をよく知らないのだ。本来なら参考になるのだろうテレビドラマというものも、ちゃんと見たことはない。
 数秒の沈黙の後、やっと私は言うべき言葉を見つけた。
「お前、知能指数低いだろ」
 私のその言葉で、周囲の連中は一瞬残念そうな、それでいて『やっぱり』という顔をしたかと思うと、再び各々が会話を始めた。一体連中は何を期待していたのだ?
「そんなことないっすよ。一応、慶応出てますし」
 生意気にも慶応大学か。じゃあ、知能指数は高いな。すると――。
「言い直そう。お前、馬鹿だろ」
「あ、それ自認してるっす。あんまり話したことないのにそこに気付くなんて、やっぱ気ぃ合いますね」
 訳の分からない思考回路の持ち主だ。ここは一つ、ちゃんと言い聞かせる必要があるな。
「昔、ジュースの空き缶を灰皿代わりにしてたことがあった。ある時、オレンジジュースを飲んでいたんだが、灰缶とジュースの缶を並べて置いてたんだ。それで、ジュースを飲むつもりが間違って灰缶を口に持っていってしまった。吐息によって飲み口に溜まっていた灰が舞い上がって、結果、口の周りに灰がびっしりと付いてしまった」
「そりゃ大変っすね。で、それが何か関係あるんすか?」
 きょとんとした顔で、新田が尋ねる。私はその馬鹿面に、思わずにやりと唇を歪めてしまった。
「ちゃんと確認しないと、ものの判断を間違えてしまう。そして、間違ってしまってからでは遅い。そういう教訓」
「つまり……告白するムードくらいは選べと、そういうことっすね」
「違う」私は呆れ半分に否定した。
「相手は選べと言ってる。私なんかを恋愛対象にしても面白いことは何もないぞ。料理はしないし、流行にも疎い。話題を提供するのも嫌いだし、何より人間が嫌いだ」
 そう言うと、私は立ち上がった。これ以上ここにいても、下らない話をするだけで酒を味わうことは出来そうにない。
「どこ行くんすか?」
「部屋に帰る。後は酔いつぶれるなり、他の女を襲うなり自由にやってくれ」
 ハンドバックを手に、私は歩きだした。襖を開け、外に出る。廊下に人の姿はなく、閉じた襖の向こうから部署の連中が騒ぐ声が異様に大きく響いて聞えた。
 パイポを咥えなおし、「よし」と気合を入れるつもりで頷くと、私は自分の部屋へ向かった。
「三沢さんっ」
 何故か、背後から新田の声が聞こえてきた。自由にやってくれとは言ったが、ついて来ても良いと言ったつもりはないのだが。
「何?」
 面倒くさそうに、私は顔を顰めながら振り向いた。実際に、うざったかった。
「大事な答え、まだ聞いてないっすよ。俺と付き合ってくれませんか?」
「やだ」
 私は即答した。付き合う? 冗談じゃない。寂しさを紛らわせる為に傷を舐めあうような真似は、私の趣味じゃない。そもそも、思い込みとは言え、他人を大事に思うことなどこの私には不可能なのだ。そんなこと、もう何十年も前から分かっている。私には人を愛することは出来ない。私にとって、他人は恐怖以外の何ものでもないのだから。
「俺、諦めないっすよ」
 頭の切り替えが早い奴だ。普通そこは、「何故ですか?」と食い下がるものだろう。まあ、この方が話は早くていいのだが。
「諦めろ。付き纏われても邪魔なだけだ」
「嫌っすね。三沢さんの言葉に従う義理はないっすから」
 小賢しい論理だ。同時に、他人が迷惑を被ろうが自分が良ければそれで良い、という傲慢な意味にも取れる。
「教えておく。私は空手をやってる。怪我したくなかったら、ストーキングはやめておけ」
 通信教育だけどな。それでも、自衛手段として無いよりはマシだ。
「ストーキングって、メチャクチャ言いますね。犯罪するつもりはないっすよ」
「セクハラと同じだ。受ける側がどう感じるかが問題なんだ」
「そんなこと言ってたら、何もできないじゃないすか」
 呆れたように新田は言った。確かに、と、私は心の中で同意した。だからと言って、攻撃の手を緩めるつもりはない。先に引いた方が、この勝負の敗者だ。
「だったら何もするな。それで万事解決する。私もハッピー、お前もハッピー。最高のエンディングじゃないか」
 まるでハリウッド映画のような結論だ。高確率で、最終的にはハッピーエンド。正直、作り物の人生はそこが羨ましい。
「俺はアンハッピーっす。とりあえず、デートくらい付き合ってくれないっすかね?」
「下らない。デートなんて――」
 そこで私は言葉を飲み込み、顔を顰めた。こめかみの辺りを、釘で貫いたような鋭い痛みが走ったのだ。私は、慌てて視線を床に落とした。
 くそ……まただ。もう何百回と繰り返してきた痛み。そして、いつもと同じように、視界が大きく揺さぶられる。動悸が激しくなり、呼吸がまるで運動した直後のように荒くなる。肺が、痛い。
 続いて、半紙を乾いていない墨の上に置いた時のように、小さな黒い染みが視界の中に生まれてくる。しばらくすると染みは形を作り始め、横方向に等間隔の隙間を開けて走る複数の黒い線となった。まるで傾斜を緩くしたブラインド越しに外を見る時のように、目の前の世界は無数の線によって分断された。
 最悪だ。また、世界が分断されてしまった。ここにこいつしかいないのは幸いだが――。
 不意に、廊下が交差している方から人の話し声が聞こえて来た。見てはいけないと分かっていたのに、反射的に私はそちらを見てしまった。
 分断された世界に、二人の浴衣を着た若い女が入ってくる。線は彼女達の体を分割し、同時にその精神までも細かく分けてしまう。バラバラになった心はそれぞれ、輪切りにされた身体に納まっている筈だ。それだけなら、まだこの体質を忌むこともない。だが、私がこの異常な現象を嫌い、恐れる理由は他にある。
 分断された心達。そんな中で、一つだけ活発な自己主張を始めるものがある。分けられた下半身……下腹部の辺りから、それは漆黒のもやとなって、外に染み出してくる。
 それは闇。誰もが心の奥底に抱える、本人ですら気付いていないような悪意。いや、悪意と呼ぶのはふさわしくないかもしれない。それらは、最も純粋で、知能の発達した人間だけが有する生理的な欲望なのだ。
 女性達の下半身の断面から溢れ出す闇は、ついに全身を覆い隠す程にまで拡がり、私の心にイメージを投影し始める。こめかみを貫く痛みに歯を噛み締めながら、私は呼吸を止めていた。
 右側の女を覆う闇に映されたのは、凶暴な破壊衝動。力のない幼児をいたぶり、悦に浸ることに繋がる自己の力の顕示欲求。他者を奴隷のように扱い、足蹴にしてせせら笑う優越感への憧れ。
 そこまで見て、私は慌てて目を閉じた。分かってる……あれは、彼女が特別に持ってるものなんかじゃない。全ての人間が、形は違えど抱えているものだ。善人と評される人ですら、気付かないで持っている闇だ。人間は、心の奥底に魔性を飼っている。人間に生まれたからには、絶対に逃れることのできない鎖なのだ。
 だから、私は人間が嫌いだ。
「大丈夫っすか?」
 いかにも心配してるような、新田の声が耳元でした。偽善の心配。本当はどうでもいいくせに、体面上声をかけているだけ。もしくは、心にもない言葉を、自分で本気に信じながら言ってる場合もある。どちらにしろ……これも人間の嫌なところ。
「うるさい。ただの持病だ。お前は帰れ」
 自分で思っていた以上に、きつい口調になってしまった。が、どうでもいい。こいつに嫌われるくらい、痛くも痒くもない。
「邪魔だから。私は放っておけ」
 とどめのつもりで、そう付け足した。私の言ってる言葉の意味が分かるなら、普通の奴は場を去るだろう。せっかく心配してやってるのに……と、不満を露わにしながら。
 新田が動く気配がした。そして、私は確信した。こいつは、本物の馬鹿だ。
「マジ、大丈夫っすか?」
 新田の手が、私の肩に添えられる。頭痛と、網膜に残る先程の女性の闇に映った映像が私を苛立たせているというのに……こいつは火に油を注ぐのが趣味か?
「お前には……ちょっと言葉が難しすぎたか? なら、分かり易く言い直してやる」
 息を喘がせながら、精一杯の皮肉を篭めて私は吐き捨てた。
「消えろ」
「嫌っす」
 なんて、強情な奴だ。呆れ返って、物も言えない。しかもなんだ? 今の、「嫌っす」という言葉の無意味に真摯な響きは。本気で私を心配してるつもりになってるのか? 私はさっきから言っている。お前は邪魔だ、と。むしろ、お前がいると迷惑なんだ。それとも、私にお前の闇を見て欲しいのか? お前は、露出狂か? くそっ。何もかもが忌まわしい。なんで、よりにもよってこいつがここにいるんだ。後をついて来る気も起きないように、徹底的に拒絶するべきだった。
「頭、痛むんすか? こっち見てくださいよ。なんか、顔色悪いみたいっすよ?」
 そうか……そんなに私にお前の中身を診てもらいたいか。診るまでもなく、分かってるんだがな。貴方は、先天的に精神に欠陥を抱えています。人間として生まれた時点で貴方は動物失格です、ってな。
「ほら、身体を持ち上げて。部屋まで連れて行きますから」
 私の右手が、新田によってその肩に捲かれようとする。その動作が……形ばかりの優しい手の感触が、引き金になった。
 思いっきり新田の手を振り解く。後ろに下がろうとして、足が軽くよたついた。壁に手を突き、何とか上体を起すと、きつく閉じていた目を見開いて、新田の顔を睨みつける。
 突然のことに驚いたのだろう。新田は顔を強張らせて、私によって振り解かれた手を宙に浮かせている。奴の間抜け面は、無数の線によって分断されていた。
「お前は、本当に……」
 新田の下半身を横切る線から、黒い染みが溢れ出し始める。それは、みるみる内に新田の身体を蔽っていく。
「邪魔な奴……」
 新田の全身が、闇色に染まる。そして、何かのイメージが映し出されようとした。
「あ……」
 知らぬ内に声を漏らしていた。闇が消えていく。世界を分断する線は、風に削られていく運動場の白線のように掻き消えてしまう。頭痛が嘘のように治まり、心臓の鼓動は段々落ち着いてくる。後には、普通の視界が残されていた。いつもと同じように、今回も数分で止んでくれたのだ。
 深く息を吐き出し、私は床にしっかりと立った。額に浮かんでいた脂汗を手の甲で拭い、額を掌で押さえる。もう大丈夫……大丈夫だ。
「帰る。お前は飲みの続きをすればいい」
 私は踵を返し、歩きだす。後方から、新田が深く溜息を吐くのが聞こえてきた。しばらくして、新田が宴会場に戻っていく足音が聞こえてきた。実際に見たわけではないのに、何故か私には、新田が広間に戻る前に苦笑を浮かべて肩を竦めたように思えた。
        *         *          *
 部屋に戻ると、私はすぐに洗面所で顔を洗った。化粧を落とし、乾いたタオルで顔を拭く。温泉に行くという手もあったのだが、面倒くさいのでやめにした。
 部屋は四人一間で割り振られている。他の三人はしばらく帰って来ないだろうから、一人でゆっくり出来るだろう。嬉しいことだ。
 既に敷かれていた布団の上で、服を脱ぐ。準備されていた旅館の浴衣に着替えると、布団の上に胡座を掻いた。
 全く……とんでもない奴に惚れられたものだ。ああいう、何も考えていなさそうな能天気野郎は、一番嫌いな部類に入る。これに懲りて、諦めてくれるといいんだが。
 なんとはなしに顔を動かし、窓を視界に入れる。真っ黒な長方形が宙に浮かんでいるようで、少し面白かった。立ち上がり、窓際に寄って外を覗いてみる。黒い窓に映る自分の顔の向こう側に、近くにある他の旅館が見えた。灰色の壁にぽつぽつと浮かぶ部屋の明かり。掠れた歌声のような風の音。窓に顔を寄せると、空がより明確に見えた。白色の雲が、真っ黒な空を流れていく。雲の動く音が聞こえてきそうなくらいに、迫力のある光景だった。
 窓から顔を離した拍子に、焦点が窓に映る自分の顔に合う。無表情で、仮面のような顔。新田は、こんな私の何処に惚れたのだ? 私が男だったら、こんな陰気な女は選ばない。
――そう、陰気。だが、それはお前が求めた気質だろう?
 頭の中でそんな声が響いた気がした。窓ガラスに映る顔が、私をじっと見つめている。
――他人の闇に気付いて、他人を恐れて。それで、交わりを断つ為に、人を寄せ付けない人間になろうとしたのだろう?
 そうだ。私は敢えて自分を今のような人間にした、と言えるだろう。子供の頃から、他者を避けてきた。私は、今の自分となる道を選んできたのだ。そして、その選択は間違っていないと、今でも思っている。
――そうか? 本当に間違っていないのか? 本当の問題は解決されてはいないだろう?
 本当の問題? 何を言ってる? 全ては順調だ。何も問題はない。
――本気でそう思っているのか? なら、お前は何に怯えている。もう、他人に怯える必要はないだろう? もう、他人と繋がることなどないのだから。
「私は、何にも怯えてなどいない」
 窓ガラスの中の顔が、私を睨んだ。
――自分に嘘を吐くのが上手いな。もう、とっくの昔に気付いていた筈だというのに。
 急に、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。この声は、言ってはいけないことを言おうとしている。そんな風に思えた。理屈ではなく、心が反射的にそう考えていた。
――お前が恐れているのは他人なんかじゃない。本当は――。
「黙れっ」
――ほら、怯えてる。そこまで拒否することじゃないでしょうに。皆、一緒なんだから。
「うるさいっ。うるさいっ。黙れっ」
 耐えられなかった。耳を塞ぎ、頭を抱え込むようにして叫ぶ私の背後で、不意に襖が音をたてた。振り返ると、例の強運女藤堂が、顔を硬直させて入り口のところに立っていた。具合でも悪いのだろうか、顔が病的に蒼ざめている。そういえば、彼女も同じ部屋だったか。
「あの……すいません。あたし、邪魔するつもりは……」
 唇をわなわなと震わせる藤堂の声を、私はほとんど聞き取ることができなかった。
「すいませんでした……」
 そう言って襖を閉める瞬間に見えた藤堂の横顔は、痛ましく感じられる程に歪められていた。私にはそれが、何かに怯えながらも、その何かに必死に抗おうとしているように見えた。
 別に、藤堂のことはどうでもいい。元々、見ず知らずの他人のようなものなのだから。何だか疲れた。歯を磨いて、さっさと寝よう。
 最後に窓に向かって一瞥をくれると、そこにある顔は私の方を不吉な眼差しで睨んでいた。
        *         *          *
 物心つく頃から、私は人の闇を見ることが出来ることに気付かされていた。何の前触れもなく訪れる頭痛と、無数の線によって分断される世界。肉親も友人も、何もかもが私にとっては信用できないものになっていた。いつ、人々の中に眠る闇が弾けるとも分からない恐怖に、私は怯えることしかできないでいた。結果、自衛手段として選ばれたのは他者との交わりを極限にまで絶つという、至って単純なものだった。人の頭の中を考えずに生きていくのは、楽でいい。
        *         *          *
 あまり、心地よい目覚めではなかった。
 朝一番で温泉に入り部屋に戻ってくると、部屋はもぬけの殻だった。恐らくは、皆既に朝食を摂りにいっているのだろう。そう思い、私も手早く着替えを済ませると、昨夜宴会をした広間へと向かった。
 襖を開けると、既に皆が揃っており、食事を始めていた。
 席を探して顔を巡らすと、新田が例の如くさわやかな笑顔で手を挙げやがった。見ると、奴の隣だけが空いている。偶然にそうなることはありえないだろう。明らかに、奴が意図して空席をあそこに作ったのだ。
 仏頂面で、私は仕方なく新田の方に向かう。
「おはようございます」
「はよ」
 面倒くさくて、私は短くそう答えた。
「身体はもういいんすか?」
 朝からうるさい男だ。静かに朝飯を食わせてくれ。私は無視を決め込んで、なにも言わずに米を口に運んだ。さんまの塩焼きと味噌汁、それにたくあんと冷やっこ。朝飯としては申し分ない。
 ごちゃごちゃと喧しい新田の声を聞き流す私の目が、不意に一人の女の目と合った。藤堂……昨夜っきり、顔を合わせていなかったな。なんか、随分と堂々として見える。ふと、藤堂が昨日見せた蒼褪めた顔を思い出した。結局、あれは何だったのだろう。
 藤堂はすぐに顔をそらす。全く、私のことを気にした様子はない。昨日とはまるで別人のようだ。いや、今の姿こそが藤堂らしいといえるだろうか。話をした覚えはほとんどないが、彼女は普段から自信に溢れた言動をしているという印象がある。
 朝飯が終わると、三十分の休みを入れて、旅館を出ることになっていた。独り早く支度を終えて旅館の入口に来ると、そこに嫌な顔を見つけた。
「なんでお前はこんなに早いんだ?」
 私の問いかけに、荷物を背負った新田が振り返る。
「ああ、三沢さん。やっぱ早かったっすね。見てると、いつもなにをするんでも予定時間より前に来てたから。今日もそうだと思ったんすよ」
 それは何か? こいつ、私を待ち伏せていたのか?
「ストーカーはやめろと、言ったよな」
「昨日言われたばっかっすよ。さすがに忘れません。馬鹿にしないでくださいよ」
 こいつ、今の言葉の意味が理解できていないようだ。全く、馬鹿には付き合いきれない。
「教えてやる。今お前がやっているようなことを世間ではストーキングと言うんだ」
「違いますよ。俺、ただ早くに準備を済ませただけっすもん」
 まるで子供の屁理屈だ。精神年齢を疑わせるものがある。きっと、こいつの脳みそは微生物並に単純だ。
「ミジンコ」
 私の嘲りの言葉に、新田が苦笑いを浮かべた。何故かむかつく顔だ。これを生理的嫌悪感と言うのだろう。
「三沢さんて、時々話が飛びますよね。普通に考ると脈絡の無い単語がいきなり出てくる」
「お前の『普通』が程度低すぎるんだ。もう少し考えて発言するか、いっそ私と会話をしようとしなければいい」
 何も言わずに、新田は再び唇に笑みを刻んだ。嬉しそうに見える……罵倒されて喜ぶとは、変態か?
 無為な会話をしている内に、部署の連中が集まってきた。移動する為にバスに乗ろうという段階になって、歩きだそうとした新田が立ち止まり、私の方を振り向いた。
「幾らなんでも、俺の頭はミジンコ程単純じゃないっすよ」
 言って、新田はさっさとバスの方に行ってしまった。
「何だ……分かってたんじゃないか」
 少し、複雑な気分だった。
        *         *          *
 何が悲しくて、わざわざバスに乗って牛の面なんぞを拝みに来なければいけないのか。
 やはりうちの部署はおかしい。普通、慰安旅行で牧場に来るか? 企画した奴は、小学校の修学旅行と勘違いしているのではないだろうか。恐らく、企画者は他部署の慰安旅行の内容など全く知らないのだ。勉強不足の一言では許されない失態だ。
 もぐもぐと反芻する牛の間抜け顔を正面から睨みながら、私は知識不足の生み出す悲劇が如何に途方もない苦痛を生むかを頭の中で力説していた。
「牛って、胃の中身を口に戻して噛み直すんすよね。二度美味しいって奴っすか」
 だから、なんでお前がここにいるんだ。ミジンコ脳みその新田。
「胃液の混じった食物が美味しいものか」
 牛の顔から視線を逸らさずに、私は吐き捨てるように、「馬鹿」と付け加えた。
「あ、なーるほど。確かにそりゃ美味くない。三沢さん頭良いー」
 見なくても、新田がどんな顔をしているかは簡単に想像できた。口を、「おー」と大きく開けて、驚いたような阿呆面をしてるのだろう。自分で思い描いてみた新田の顔は、あまりにもリアルかつ奇怪で、迂闊にも唇が可笑しさに歪んでしまった。
「にしても、メチャ良い天気っすね」
 何が『にしても』なのか分からないが、新田は唐突にそう言った。
「そうか? 別に雲が全くないわけでもないし、色だって普通。何の変哲もない空だろ」
「いやぁ、そうなんすけど……だからこそ良い天気っていうか……」
 奥歯にスルメが挟まったような言い方が、少し癪に触る。だが、今回くらいは大目に見てやろう。ぽかぽかのお日様に免じて、な。
「新田君。ヨーグルト食べた?」
 不意に聞こえてきた女の声に首を巡らすと、藤堂が小さなカップ片手にやってくるのが見えた。新田が、「うっす」と手を上げて答える。藤堂は私の方に小さく会釈してから、新田に話し掛けた。
「ここのヨーグルト、美味しいよ? リンちゃんの話だと、ソフトクリームもイケてるってさ。もう食べた?」
 リンちゃん……恐らくは、梶田輪子の事だろう。新田と藤堂の同期だ。同じ部署に三人も同期が入ることなど、非常に珍しい。仲が良いのか、新田と藤堂と梶田が一緒にいる所を頻繁に見かける。
「まだだよ。ずっとここで牛見てたから」
「えー? 嘘でしょ? 牛なんか見てても面白くないじゃない」
 残念ながら、面白いんだ。牧場の中を見回って足をくたびれさせるよりは少しだけ、な。
「ね、ソフトクリーム食べに行こうよ。ここでぼーっとしててもつまんないでしょ」
 そう言って、藤堂が新田の腕を引っ張る。新田は、「いやぁ」とかはっきりしない言葉を漏らしながら、困ったように私の方をちらちらと見てくる。軟弱な奴だ。嫌なら嫌。行くなら行く、とはっきり決めろ。
 渋る新田の視線を追うようにして、藤堂もまた私を見た。
「三沢さんも行きませんか?」
 自然な誘いの言葉。だが、内面は違うということは知っている。好き好んで私のような無愛想な人間と一緒にソフトクリームを食べたいと思う人間なんぞ、いる筈がない……いや、一人だけそんな馬鹿はいるが……藤堂の言葉は間違いなく社交辞令だ。
 新田は表情を明るくし、「そうだ。三沢さんも行きましょう」と急に元気な調子でそう言った。冗談だろう? やっとお前から逃れられるというのに、誰が自分の首を締めるような愚を冒すか。
「嫌だ。私は牛を見てる。お前は行け」
「じゃあ、失礼しますね」と言ったのは、勿論藤堂だ。そして、残念そうに顔を歪めている新田を半ば強引に連れて行く。
「達者でな」
 去り行く二人に別れの言葉を告げる。未練がましそうに何度もこちらを振り返っていた新田も、しばらくすると諦めたのか、完全に背を向けて行ってしまった。
 と、急に新田が藤堂に何かを言って、私から見て横方向に歩いていってしまった。藤堂はそんな新田を黙って見送り、新田の姿が見えなくなってからも同じ場所に立ち続けている。恐らく、新田はトイレにでも行ったのだろう。
 しばらくしてから何気なく再び藤堂のいた方を見てみた。まだ新田は戻ってこないらしく、藤堂は待ちくたびれたようにつま先で大地を叩きながら、煙草を吸っている。
 激痛がこめかみに走った。続いて襲い掛かる頭を揺さぶられる感覚。
「痛っ……」
 まただ。昨夜に続いてまた、世界が分断されようとしている。二日連続なんて、初めて……最悪だ。今までは、早くても一週間は間が空いていたのだ。新田に付き纏われているだけでも気分は最低だというのに……。
 墨を流したように、黒い線が視界の中に現れる。横方向に等分された世界の中には、藤堂が一人、立ち竦んでいた。目を逸らさなければいけないっ。この世界には、誰一人いれてはいけないっ。分かってるのに……心の根底にある何かが、藤堂に注目することを強制する。
 藤堂の身体は線によって幾つかのパーツに分断され、黒く濃厚な闇が、彼女の下腹部から流れ出した。闇は藤堂の全身を包み込み、いつもと同じように、私の脳は彼女の持つ、無意識の悪意を見た。いや……いつもと同じではない。藤堂の闇は、普通の人間と明らかに違う。分かるのだ。彼女は、自分の闇を知っている。自分で認識できるほどまでに、藤堂の闇は意識の表層に浮かび上がってきている。気持ち悪い……吐き気がする。どこまでも純粋な、殺意。人を壊すことへの興味が、破裂寸前のマグマドームのように、膨れ上がっている。恐らく、藤堂自身、その感情を抑制するのに必死かもしれない。他者に向けられる攻撃の衝動。これは、大多数の人間に見ることが出来る、一般的とも言えるような闇だ。だが、あまりにも彼女の闇は表に出てきてしまっている。まだ、現実には行動していないだろうが、間違いなく、彼女は殺人者候補だ。あそこまで表層化してしまった殺意を抑えることの出来た人間を、私は知らない。彼女は危険だ。
 すっと、こめかみの痛みが消える。藤堂の闇はあるべき場所へと戻って行き、世界を分断する線も消滅していく。私はいつのまにか荒くなっていた呼吸を整えながら、呆然と藤堂の立ち姿を見ていた。
 新田が現れ、藤堂と二人で去って行く。私は、ただそれを見送った。
 口腔に残る胃液が、すっぱく舌を刺激する。先ほど覚えた吐き気の残滓に、私は頬を歪めた。
        *         *          *
 個室は素晴らしい。少し狭くても、自分以外の人間がいない世界が得られるのならば、少しくらいの代償は致し方ないだろう。そうだ。たとえトイレが水洗じゃなくても、たとえ冷房が壊れてても、たとえシーツが汚れてても、たとえシャワーから赤錆の混じった水が出てきてもっ……ちょっと、ここがホテルという名称を名乗るのは、おこがましい気がするが。
 何を思ったのか、旅行の企画者は、二日目の晩に個室を用意してきた。恐らくは、仲睦まじい男女が、人目を気にせずに愛の逢瀬を楽しめるように、という気遣いなのだろう。そしてつがいのいない男達は、風俗街へと愛の冒険に出かける。めでたしめでたし。
 今、同僚達は近くの居酒屋で冒険前の宴会をしている。私は身体の具合が悪いと言って、すぐに抜けてきた。当然だ……彼らの我侭に一々付き合える程、私は人間が出来ていない。
 何はともあれ、そのお蔭で一人だけの夜の静寂を楽しめるのだ。嘘の一つや二つ、ご愛嬌というものだろう。
湯上りに、買って来ておいた日本酒を冷蔵庫から取り出す。今日牧場で買ったばかりのマグカップに日本酒を注ぎ、本を開いた。遠出をする時には必ず持ち歩く、私の座右の書だ。上中下巻の三点セットは、持ち歩くには少々不便だが、好きなのだからしょうがない。中学の頃に買ってから何度も読み直してきたから、表紙やページには手垢がついている。こういう歴史は、好ましい。
 マグカップで飲む日本酒とロシア文学は、何故こうも相性がいいのだろうか。特にトルストイを読む時は、日本酒の香りがたまらない。私はページを黙々と捲っていく。
 不意にノックの音が部屋に響いた。私はロシアの広大な田園風景から、無理矢理に日本の狭いホテルの一室へと引き戻される。
「三沢さん。身体、大丈夫っすか?」
 私は、前世で何か非道な行いをしたのだろうか? そうでなければ、このような業を背負わされる筈がない。もしくは、背後霊の神風祖父が、私に悪意を持っているのか。
 ドアが開き、平和を乱す悪魔が部屋に侵入してくる。馬鹿新田の奴め。入っていいなどとは言ってないだろうが。
 新田は私を見て、目を丸くする。
「日本酒なんか飲んでていいんすか? 具合悪いんっすよね?」
 余計なお世話だ。確かに、世間には私が体調不良で宴会に来なかったという噂が流れている。だが、実際には健康なのだから酒くらいは飲む。
「用事はなんだ? 私は今忙しいんだ。手早く済ませてくれ」
「忙しいって……本読んでるだけじゃないすか。寝てなくていいんすか?」
 生意気な奴。本読んでるだけ、だと? お前の目は節穴か?
「酒も飲んでる。私は同時に三つ以上のことは出来ないんだ。本は読みたい。酒も飲みたい。だから、お前と話をする余裕はない。以上だ」
「ああ」と小生意気小僧新田は納得したように呟く。「仮病っすか」
 人聞きが悪い。仮病ではなく、狡猾な自己防衛の手段と呼べ。
「で、何の用なんだ?」
「体調悪いって聞いたから、心配で来たんすよ」
「はっはっはっ」私はわざと乾いた笑い声を上げた。「心配してくれてありがとう。私はもう平気だ。さっさと飲み会に戻ってくれ」
 新田の顔が、ヒキガエルがバナナの皮に滑って顔面をアスファルトに打ちつけたみたいになる。いや、待て……質量と摩擦の関係からすると、ヒキガエルがバナナの皮で滑ることはあり得ない。じゃあ、新田がバナナで滑って、たまたま落ちていた五十キロのバーベルに鼻を打ちつけた……これにしよう。ざまあみろ。
「なんか……今、凄く酷いこと考えてないすか? めちゃくちゃ愉しそうですよ」
「いや。青春は素晴らしいと思っていただけだ」
「絶対嘘っすよね」
 酷い男だ。女がバレバレの嘘をついた時は、分かってても騙されたふりをするのが男の度量というものだろうに。人間が小さいな。
「そんなことはどうでもいい。ほら、さっさと帰れ。他の連中が待ってるだろう?」
「俺は飲みには戻らないっすよ」
 なんだと? もしかして、意地でもここに居座るつもりか? 
 私の不安が杞憂に過ぎないことを、幸いにも新田は証明してくれた。
「これから藤堂さんと梶ちゃんと一緒に散歩に行くんすよ」
 散歩か……随分と物好きな連中だ。それとも、何か面白い名物でもあるのだろうか?
「観光名所でもあるのか?」
「別にないっすよ。ただの散歩っすから。七時半に約束してるんすよ」
 つまらん。本当にただの散歩か。昼間に見た藤堂の闇のことが少し気にかかるが、梶尾も一緒ならば何かが起こるということもないだろう。三人で仲良くぶらぶらしてくればいい。っていうかさっさと行け。もう約束の時間を三分もオーバーしてるぞ。
「で、いつまでここで油を売ってるつもりなんだ。二人が待ってるのだろう?」
「ちょっと様子見に来ただけっすよ。じゃ、俺は行きます」
「ああ。行ってこい……新田、一つだけ注意しておくぞ」
 私の言葉を聞いて、新田は意外そうに両目を瞬かせる。その表情が何故か気に食わない。
「夜の散歩は結構だが、藤堂と二人きりにならないようにしろ」
 何故、そんなことを言ってしまったのか。別にこいつの身に何かあったとしても気にならないだろうに……いや、むしろ私の側から消えてくれて清々するだろう。それなのに、何故私は新田の身を案じるようなことを言ってしまったのか?
 私の内面で行われた問答も、にやけながら新田が言ったその言葉でどうでもよくなってしまう。
「もしかして……嫉妬っすか?」
 私は無言のまま、マグカップの中身を新田の間抜け面にぶちまけてやった。
        *         *          *
 酒臭い頭の新田が部屋を出ていってから、三十分程経っていた。カーペッドに染み込んだ日本酒を濡れ雑巾で拭ってから、しばらく酒は休憩にすることにした。感情的になった時、後先考えなくなってしまうのは私の悪い所だ。
 そんなことを後悔しながら口に咥えた禁煙パイポの先端を上下させていると、ドアが躊躇いがちにノックされた。
 また新田の奴かと思ってわざと黙っていると、聞えてきたのは全然別人の声だった。
「あの……すいませーん!」
 やけに大きな女の声。聞き覚えがあるのだが、誰だか分からない。
「なんだ?」
 面倒だったが、一応答えておいた。その直後にドアが開かれる。タイミングからすると、私が答えなくても開けられていたかもしれない。
「お休み中お邪魔しまーす」
 顔を見せたのは茶色いショートヘアの若い女だった。新田や藤堂と同期の梶尾輪子だ。梶尾は私が何か言うよりも先に、唐突に問い掛けてきた。
「先輩。新田と藤堂知りません?」
 その問いに思わず眉間がひくついた。それをどう解釈したのか分からないが、梶尾は首を傾げる。
「おっかしいなー。新田のことだからまた先輩にちょっかいかけてるのかと思ったのに」
 お前の予想は的中している。三十分程時間がずれているだけだ……そう、三十分も前のことだ。予定ではとっくにお前達は……。
「待ち合わせていたんじゃないのか? 新田ならもうだいぶ前に来て、これから散歩に行くと言って出て行ったぞ」
 意外そうに、梶尾は声を上げた。元気の有り余った大きな声が頭に響く。
「うっそ! なんで? 約束した時間は八時じゃん」
 時計を見る。八時五分だ。新田は確か七時半に約束していると言っていたが……梶尾が勘違いしていたのだろうか?
「藤堂め、アタシをはめたな。ま、いいけどさ。どうせ、先輩に新田を取られそうになったから、一発逆転狙って二人きりになろうとしたんだろうし……」
 藤堂が、新田と二人きりになりたがっていた……?
「梶尾。それは、藤堂が新田に興味を持っているということか?」
 さっきの新田みたいなにやけ笑いをし、梶尾はひそひそ声で教えてくれた。
「藤堂って、新田のことが好きなんですよ。それが昨日新田が先輩にコクっちゃったから、焦ってたみたいなんですよねぇ」
「そうか。それで……」
 今日の昼、牧場で話し掛けてきたのは、私から新田を引き離そうとしていたということか。まあ、それは私の協力もあって見事に成功したわけだが。
「まあいいや。飲み屋に戻ろー」
 そう言って、梶尾が部屋を出て行こうとする。私はそれを見送りながら、考えていた。たぶん、藤堂は新田を殺すつもりなんじゃないだろうか。興味とはつまり、獲物としての興味なのではないだろうか? 昼間に見た藤堂の闇は、愛情とか優しさとか……そんなものが介入できるようなレベルではなかった。もう限界なのだ。理性で抑えられる段階ではないのだ。恐らくは今夜、藤堂は猟奇殺人者としての第一歩を踏み出すことになる。新田という間抜けな獲物によって、戻れない場所まで行ってしまう。自分の中の闇に逆らうことが出来ずに、周囲に助けを求めながらも、周囲を壊し続けるのだ。でも、私には関係ない。それが人間だ……一度闇に呑まれてしまえば、物理的な力によってでしか止まれない。この闇を罪だと言うならば、人は皆罪人なのだ。被害者となる新田もまた罪人だ。だから、奴が死のうが気にしない。
「梶尾」
 気付かない内に、私は梶尾を呼び止めていた。梶尾はドアを開けた姿勢で私の方を首だけ振り向かせる。私は、やはり意識しない内に言っていた。
「お前達はどの道を散歩する予定だったんだ?」
        *         *          *
 気に食わないことが一つある。私を見送った梶尾の目が、愉快そうに歪んでいたのだ。あいつはきっと勘違いしてる。私が藤堂から新田を奪おうとしているとでも考えているのだろう。とんでもない妄想だ。私はあくまで藤堂の凶行を止めようと思っただけだ。せっかくの慰安旅行で流血沙汰なんて御免だからな。別に、新田のことなんかどうでもいい。そうだ、本当にどうでもいいんだ。関係ない……関係ない。
 走っている内に息が切れてきた。長年の喫煙習慣が恨めしい。足が痛い。元々私は運動は苦手なんだ。くそ……苛々する。あの二人もわざわざこんな山道を散歩コースに選ばなくてもいいだろうに。街路灯がやけに暗いし、アスファルトが所々割れてるし、今にも幽霊が出てきそうだし……別に、お化けなんか怖くはない。嫌いなだけだ。生きてるんだか死んでるんだかよく分からないような、中途半端な状態が気に入らない。死ぬんだったら出てくるな。生きてるんだったら、身体くらい持て。私は半端者は大嫌いなんだ。だから、別に幽霊は怖くなんてない。
「うひゃっ!」
 思わず声が出た。前方から、路肩の下生えが揺れる音がしたのだ。動物……だろうか。そうだ、そうに決まっている。驚かせてくれるな。心臓に悪い。全く……あの二人はなんでこんな場所を選んだんだ?
 唐突に声が聞えて来た。心臓が飛び跳ねたように感じて、慌てて胸を押さえる。なんだ、今の声……低い男の声だった。そんなに遠くない所から聞えて来たように思える。何かが動く気配がする。ちょっと……勘弁して欲しい。心臓の鼓動が痛い。頬を冷や汗が伝う。また、声が聞えた。苦しそうな男の呻き声だと、今度ははっきりと分かる。本気でやめて欲しい……っというか、お願いだからやめてくれ。幽霊は怖くないなどと馬鹿にしたことは謝る。だから呪わないでくれ。いや、マジ……ホント……お願いだ。ああ、もう……じいさん助けてくれっ。
 守護霊への祈りも空しく、再び呻き声が聞えてくる。同時に、新田に良く似た顔をした幽霊が路上へと飛び出して……新田?
 私の目の前に飛び出してきたのは、確かに新田だった。右の二の腕から、鮮血が溢れ出している。怪我をしたのだろうか。
 新田の目が、私を見る。そして、
「逃げて下さいっ」
 苦痛に顔を歪めたまま、絶叫した。
 直後、草むらから藤堂が姿を見せる。藤堂は心苦しげに睫毛を伏せ、悲嘆にくれる寡婦のように顔を蒼褪めさせ、そして……唇だけ、道化師のように笑っている。その手に握られているのは、銀色のナイフ。藤堂はアスファルトに転がる新田の傍に歩み寄り、ナイフを高々と振り上げる。
そこで、私はやっと声を出すことが出来た。
「藤堂っ」
 ともかく藤堂と新田の方へ走った。藤堂は私に気付いて、顔を上げる。あっさりと、振り上げていたナイフを体の横に下ろす。
「やっぱり……邪魔しに来たんですね」
 藤堂の目が私を睨みつける。凄い目つきだ。魚類の開きっぱなしの眼より怖い。そんな眼で睨まれるようなことをした覚えはないんだが、今はそんなことを言っている場合ではないだろう。アスファルト上に転がりながら、新田は腕の傷を押さえている。どうやら傷は深いようだ。
「こうなることは分かっていたのにな……自分が情けない」
 そうだ。分かっていた。でも、わざと遅くやってきた。そうしないと、新田に変な勘違いをされそうだからだ……でも、何故私はそんなことを気にしていたのだろう? 新田にどう思われようが、否定すればそれで済むではないか。それなのに、何故?
「分かっていたのに……」
 悔しさのあまりに、もう一度呟く。すると、藤堂が驚いたように両眉を持ち上げた。
「分かっていた? 凄い自信ですね。こうなることが分かっていたんですか? あたしが、新田君にふられると……新田君があたしよりも貴女を取るのだと、分かっていたんですか? 本当に憎たらしい人。何にも興味がないような顔をして……一匹狼を気取って……そのくせ良い男には色目使うんですね」
 随分と……言いたい放題言ってくれるじゃないか。殺人未遂の現場を見られて自暴自棄になっているのは分かるが、だからと言って面罵したことを許してやるほど私は心が広くない。
「なんだ。新田にふられたから殺そうとしたのか。もっともらしい理由がつけれて良かったな。本当は、そんな理由がなくても新田を殺したかったんだろう? 欲望を吐き出したかったんだろ?」
 藤堂が微笑んだ。なんて不気味な笑い方をする女だ。見ているこっちが気持ち悪くなってくる。
「凄いんですね。まるであたしのことを知ってるみたい……でも、分かっていない。殺したい欲望を叶えたがっていた? あたしが……ずっと新田君を殺すことを欲していた? ふざけないでっ。あたしはこんなもの大嫌いなのよ。こんな疼きなんて認めたくないのよ。普通に新田君とデートとかしたかった……それだけなのに、良かっただろうですって?」
 どうやら、失言だったらしい。頭に血が上って、私も深く考えずに言ってしまった。欲望と意思が一致しない、それはよくあることだ。道徳的にそれは駄目なことだと分かっていながら、犯罪に手を染めずにはいられないという状況は存在する。藤堂もそうなのだと考えれば、それは辛いことかもしれない。酷いことを言ってしまったか。
「逃げて……下さい……」
 新田の掠れた声に顔を上げると、藤堂がナイフを握りなおしながらこちらに向かって歩き出したところだった。不良気取りの高校生とかが持ち歩いていそうな、ちゃっちい品だ。しかし、ちゃっちいとは言え凶器であることに代わりはない。刺されれば痛そうだ。
「ここで貴女を殺します。そうすれば、きっとあたしのこの疼きも収まってくれるだろうから。それに、貴女がいなくなれば新田君もあたしを見てくれるわ。そして、あたし達は幸せになるのよ。だから、大人しく死んでくださいね」
 藤堂がナイフを胸元に構えて走りよってくる。新田がしゃがれた声で必死に藤堂を止めようとするが、無駄なことだ。お前の言葉なんかが、彼女に届くわけがないだろう? 勿論、私の言葉だって無駄だ。だから、何も言う必要はない。
 迫り来るナイフの刃は綺麗だった。氷のように冷たい光沢が、暗がりの中で流れるように近付いてくる。人を傷つける為だけに存在する道具……だから、全く温かみがないのだろうか。そうかもしれない。それは、合理的な仕組みだ。傷つけることしか出来ないものに、温もりなど必要ないのだ。人においても、それは変わらない。
 藤堂が高々とナイフを振り上げる。冷たい切っ先が、弾けるような痛みとなって左の乳房の上辺りに抉りこむ。痛い……予想以上に痛い。肌に粘りつくような汗が額に浮かぶのが分かる。でも、不快ではあっても、怖くはない。そうか……今気付いた。何故私がこの二人を追ってこんなところまで来たのか。私が求めていたものを、藤堂が与えてくれると分かっていたからなんだ。この恐ろしい……人間だらけの世界から逃げ出す……その手助けを、藤堂に求めていたのだ。怖かった。ずっと、怖かった。いつ、誰が私をメチャクチャに傷つけるかも知れない……そのことに怯えながらずっと生きてきた。その恐怖からの解放が死にあるのならば、喜んでそれを迎え入れよう……今気付いたけれど、私はずっとそう思っていたのかもしれない。
「なんで……」
 目の前で、愉悦に歪められていた藤堂の顔が変化する。間抜けな面だ。なんでこの女は泣きそうになってるんだ?
「なんで、叫ばないんですか? 命乞いは? 悲鳴は? 怯えて下さいよっ! もっと醜態を晒して下さいよっ! 何で何も言わないんですか……それなら、これでどうです?」
 藤堂の手が、私の胸に突き立てたままのナイフを捻った。肉を掻き回される激痛は泣きたくなる程だが、歯を食いしばって声が零れるのを堪える。なんでこんなにじらすんだ……一思いにやってくれればいいのに。
 藤堂が、愕然と眼を見開く。大して疲れるようなことはやっていないだろうに、吐息が荒い。血走った目で私を睨みつけ、叫んだ。
「なんでっ? なんでそんな冷静ぶってるの? 違うのよっ……あたしが見たかったのは、こんなものじゃないっ。貴女の無様な姿が見たかったのに、なんでいつもと変わらないわけ?」
 うるさい。なんで人一人殺すのにそんな騒がなければいけないんだ? 口を噤んで静かに終わらせればいいだろう。沈黙こそが、一生の終わりには相応しいのだから。
 左胸から熱い塊が引き抜かれる。身体の一部を持っていかれたみたいな不快感と、身を捩りたくなるような激痛が身体の中を這い回る。痛い……苦しい……なんでこんな思いをしなくてはいけないんだろう。私は、ただ終わりたいだけなんだ……。
 ナイフが引き抜かれた為か、身体から血が急速に流れ出ていくような感じがした。胸が、掌が、腹の辺りが、温かい。新田が何か怒鳴っているが、よく分からない。なんだか、頭がぼうっとしてきた。立っていることが酷く億劫に思えてくる。疲れたな……座ろう。無理して立ってる必要なんてないんだから……。
 足から力が抜けた。同時に、耳の上らへんがチクリと痛んだ。見上げれば、藤堂がナイフを右に振り切った姿勢で、呆然とこちらを見下ろしていた。
 ああ……惜しいことをした。もう少し立っていたら、きっと藤堂は私の頚動脈を断ち切ってくれていたのだ。私は終わることが出来ていた筈なのだ。
 傍らに藤堂が座り込む気配がする。いよいよ最後の時が来たのだ。きっと、藤堂はナイフを大きく振り上げ、私の心臓を抉るのだろう。そして、私はあらゆる恐怖から開放される。
 思考がぼやけてくる。世界が狭まり、闇が近づいてくるのが分かる。それは、私をいつも脅かす闇ではなく、安らぎと温もりに満ちた闇だった。
 そして、私は闇へと手を伸ばす。
        *         *          *
 暗い水底から掬い上げられるような浮遊感。光が次第に辺りに射し始め、私は水面が近いことを知った。やがて、真っ直ぐな日差しが私の瞼に触れて……。
「おはようございます」
 いきなり目の前で新田が笑った。横になっている私の顔を真上から覗きこんでいるのだ。
 何が何だか分からないが、新田の無意味に爽やかな笑顔がむかつくという自分の心の動きだけは、なんとか理解出来た。
「あれ? もしかして具合悪いんすか? 表情曇ってますけど」
「最悪の気分だ。朝からお前の顔を見たせいでな」
「冗談キツいっすねー。生真面目な奴が聞いたら本気にしますよ」
 どうやら、こいつのフニャフニャな脳みそは、今の皮肉をジョークに変換するという恐ろしい欠陥を抱えているらしい。憐れな男だ。
「本気にして欲しかったんだがな」
 嘆息しながら身を起こそうとして、私は胸を抉るような激痛に呻き声を洩らした。見下ろすと、真っ白な包帯が胸に巻かれていた。今更のように、自分の居場所が分からない不安に駆られた。
「あ! 無理しないでください。傷が開きますよっ」
 慌ただしく腰を浮かせ、新田は大声を上げた。
 そうか……。傷という言葉で思い出した。私は藤堂に胸を刺されて……。
「私は死ななかったのか」
「幸い臓器はほとんど傷つかなかったらしいっす。一週間もしたら、千葉の病院に移ってもいいって医者が言ってました」
 つまり、ここは慰安旅行先の病院ということか。道理で薬品臭い部屋だと思ったんだ。
 何となく気持ちが虚ろな感じがした。私は助かった……しかし、私は生き延びることを望んでいただろうか? いや……私は死を望んでいた。だからこそ、ホテルを抜け出した新田と藤堂を追ったのではないか。そうだ……藤堂はどうなった?
 思考から抜け出し、顔を上げた私に、新田は珍しく神妙な顔をして言った。
「藤堂さんは警察に身柄を預けました」
 まるで私の心を読んだかのようなタイミングだった。
「三沢さんが気を失ったあと、藤堂さんはその場に座り込んで動かなくなったんす」
 新田の口振りは、まるで自分の辛い過去を語るかのようだった。私がそこまで訊いてないにも関わらず、馬鹿男は苦々しげにその時の事を語り始めた。
        *         *          *
 病院と警察への連絡を終え、新田は携帯電話を閉じた。それから、静まり返った森の闇へと目を向ける。
「藤堂さん……」
 恐る恐る、新田は座り込んだまま動かなくなった藤堂に声を掛けた。藤堂は応えない。聞こえていないのか……すぐにでも逃げ出したい衝動を抑えつけながら、新田は藤堂と、倒れたまま動く気配を見せない三沢の方に近づいていった。回り込むように横に動くと、藤堂の背中に隠れていた三沢の全身が見えてくる。胸に深紅の薔薇を飾っているように見えた。化粧気のない色白な顔は、蝋人形の硬さを想起させる。同時に、新田の中で寒々しい風が吹き抜けた。ただ一瞬の悪寒……その後に訪れたのは、寂しいまでに空虚な沈黙。それが悲しみなのか、喪失感なのか、新田には判断がつかなかった。
「何で……」
 囁くような掠れ声を、藤堂の背中が洩らす。かと思うと、か細い背中が小刻みに揺れ始めた。
「何でなのよぉ」
 泣いている……新田はそう思った。嗚咽の混じった声が、更に続ける。
「何でまだ生きてるのよぉ。早く死んでよ……あたしの前から消えてよぉっ」
 金切り声を上げ、おもむろに藤堂が右手を頭上に振り上げた。そこに閃く銀光に、新田の停止していた思考が急速回転する。
「やめろっ」
 素早く藤堂の手首を握りしめる。ビデオの一時停止のように、ピタリと藤堂の動きが止まった。
「……もうやめろよ。そんなことしたら、もう取り返しがつかなくなる。俺は藤堂さんが苦しむのなんか見たくない」
 陰鬱に呟く新田の耳に、震える声が聞こえてくる。笑っているのだと気付くのに、数秒を要した。
「なんで笑ってんだ?」
 藤堂は答えない。肩を震わせながら、笑い続ける。
 緊張と、三沢の命が危ないという切迫感……非日常的な状況が、基本的には温厚な人間である新田を、珍しく苛立たせた。
「笑うなよっ」
 怒声が引き金になったように、藤堂が振り向いた。厭嵯の双眸が、新田を突き刺す。
「あんたが見たくないのはこの女が死ぬところでしょうっ」
 ヒステリックな罵声が、新田の顔を硬直させた。
「あたしの事なんかどうでもいいくせにっ……良い人ぶらないでよっ」
「違う。確かに三沢さんに死んで欲しくないのもあるけど、藤堂さんが駄目になるのも見たくないんだ。俺は、俺が好きな人達には幸せになって欲しいんだ」
「甘ちゃんね」
 あからさまな軽蔑を篭めて、藤堂は言った。それから、新田に握られたままだった手首を無理矢理振り解く。
「甘すぎ……そこまで世間知らずだとは思わなかった」
 新田に掴まれていた手首をさすりながら、藤堂は目線を外す。それから紅の塗られた唇を噛んだ。
「こんな筈じゃなかったのに……」
 悔しげな呟き声を追って、雫が落ちる。腐葉土に点々と染みが出来、斑模様を描き出す。
 嗚咽に喉を震わせる藤堂の手から、ナイフが滑り落ちた。
「なんなのよ……なんでこの人は抵抗すらしなかったのよ。これじゃあ、まるで自殺じゃない」
 藤堂の声から力が抜けていく。既に、彼女から危険な気配は去っていた。
「馬鹿みたい。死にたがるなんて……馬鹿みたい」
 新田は言葉を失い、立ち竦むことしか出来なかった。やがて、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
        *         *          *
 花瓶に花を活ける新田の背中を眺めながら、私は考えていた。取り返しのつかない罪を犯す前に止められた藤堂は、果たしてそれで救われたのだろうか? 自分の衝動を開放することが出来ないということが、幸福なのだろうか? 私はそうは思わない。たとえ他者を犠牲にするようなことであっても、自分の求めることが出来ないということは不幸なことだ。周囲に縛られ、自分の求めるものを得ることが出来ないこの社会は、生きるということを否定している気がする。
 新田が花瓶をサイドボードに置き、ベッドの傍らの椅子に腰掛ける。それから、黙ったまま私を見ていた。いつまでたっても変わらない、何か言いたそうな視線に、私は仕方なく応じることにした。
「どうかしたか?」
「……一つ聞きたいんすよ」
「何だ」
「前に言ってましたよね。人間が嫌いだって。それって何でなんすか?」
「何故そんなことを訊く」
 言葉に詰まったように、新田は口を閉ざした。何を躊躇っているのか分からない。ただ、何かを遠慮している……そんな感じはした。
 しばらくして、新田が再び唇を開いた。
「死にたいくらい、人間のことが嫌いなんすよね? じゃあ三沢さんを死なせない為には、その原因をどうにかしなくちゃいけないと思ったんすよ」
 馬鹿馬鹿しい言葉に、私は嘲笑しようとして、やめた。新田の表情は真剣だった。目を合わせていられなくて、私は窓の外に目を向けた。
「信じられないかもしれないが、私には人の中の闇が見えるんだ。人間は皆、暗い闇を内側に抱えている。そしてそれはいつ表面に現れてくるかもしれない。歴史に名を残す猟奇殺人者達がそうだったようにな」
「闇……」
 ぽかんとした顔で、新田は私を見ている。頭がおかしいとでも思っただろうか。当然だ。普通こんな話を聞かされたら誰でもそう思う。だから、今まで誰にも私の目に映る分断された世界の話をしたことはない。
「人間が恐ろしい。だから私は人間が嫌いなんだ。笑えるだろう」
 残念なことに、新田は笑ってくれなかった。
「それは嘘っすね」
「何?」
「あなたが恐れてるのは他人なんかじゃない。何故なら、それは逃げ道を死に求める理由にならないからです」
 聞いてはいけない言葉を、新田は言おうとしている。勘がそう告げた。
「だってそうすよね? 人間が嫌いで他人を避けているあなたの周りには、あなたを傷つけられる存在がいないんすから。死んでまで逃げる必要なんかない」
「やめろ」
 私は怒鳴った。それなのに、新田はやめなかった。
「あなたが恐れてるのは他人の闇じゃない。本当にあなたが恐れているのは……」
「やめろっ」
 新田が言葉を切った。私の睨みつける先で、新田の唇が淡々と呟いた。
「あなた自身っすよ」
 手が震え始める。咽喉が意味の無い言葉を搾り出す。私にはもう、新田を止められない。
「あなたはあなたの闇を恐れているんだ。他人の闇が見えても、自分の闇は見ることが出来ない。だから、それが一番怖いんだ」
 そうだ……私には私の闇がわからない。もしかしたら、私は藤堂と同じモノを持っているのかもしれない。私は狂気を抱えている。私は残酷な欲望を持っている。恐らく……いや、間違いなく。何故なら、私も人間だから……。
「なんなら、教えてあげましょうか」
 そう言った新田の瞳が、鋭く細められる。その目つきは見覚えのあるものだった。そう……飲み会の時に新田が一瞬だけ見せた、あの恐ろしい目だ。そして、それは鏡に映った私の目だ。世界を分断し、他人の闇を暴き出す力を持った視線だ。
「俺が見てあげますよ。三沢さんの中に隠されたモノ」
 やめろ……やめてくれっ。私を……私を見ないでくれっ。
 新田の眼球の奥で、一際鋭い光が閃く。世界が分割される。私が分割される。私の中から、闇が這い出してくる。
 新田が目を閉じた。再び開かれた瞳は、既にいつもの新田のものだった。が、そこに映る感情は、やけに寂しげだ。
「見えました。あなた自身ですら気付いていない、あなたの中身」
 言うな……言うなっ。
「三沢さんは……」
 やめろっ。
「目茶苦茶寂しがり屋な人っすね」
「……っ」
 聞き間違いだろうか。今、こいつは酷く場違いなことを言ったように思える。
 新田の唇が微笑を刻んだ。穏やかな、優しい瞳で新田は続ける。
「寂しくて辛くて仕方ないのに、裏切られるのが恐くて誰にも近づけないでいる。人間の本当の価値を知ってて、自分なりの立派な正義を持っているのに、公平過ぎるが故にすべてを嘲ってしまう。そして、なによりも自分を下に見ている。慎ましくて、思慮深い人っすね。でも、悲しいことに人間の真実の片側しか見ていない。厳し過ぎるんすよ。他人にも、自分にも。もっと気楽で良いんすよ。誰かに傷つけられても、裏切られてもいいじゃないすか。誰かを傷つけても、裏切ってもいいじゃないすか。すべて、あるがままに流れればいいじゃないすか。どんなでこぼこも、遠くから見れば単なる平面っすよ。地球だって、宇宙から見れば奇麗な球形っす。海の波なんて無いようなものなんす。同じように、全てをずっと遠く……大きな視野で見渡せば、人との諍いなんて小さな波で、何もないのと同じに見えてくると思うんす」
「……何を言ってるんだ」
 当惑が脳みそを埋め尽くす。こいつは何を言っているのだ。こいつが見たのは、私の闇ではないのか?
「なーんて、俺には人の中を見る力なんてないっすけどね。でも、今言ったのはあってると思いますよ。少なくとも、俺から見た三沢さんはそういう人っす」
 馬鹿にされているのか? いや、違う。少なくともこいつは、本気で言っている。こいつの目が、本気だと語っている。
「私は寂しくなんてない」
「嘘はやめにしましょうよ。あなたは寂しいんだ。これでも人を見る目はあるつもりっすから」
「大間違いだ。お前の眼力などあてになる筈がない」
「強がりもやめにしましょ。三沢さんには闇が見えるんすよね。だったら、もしかしたら俺が意識していなかっただけで、俺に見える貴女は他の人間には見えない貴女なのかもしれない。俺だけの、特別な視野なのかもしれない」
 何だか疲れた。こんな言い合いは無意味だと分かっている。きっと、新田の言う通りなのだろう。私は厳しく考え過ぎていたのかもしれない。私には分からない私の闇が、他人を傷つけるかもしれない不安……そんなものは、気にしなくて良いのかもしれない。他者を傷つけるモノが人間ならば、それを受け入れればいいだけなのだ。
 溜息を吐くように、新田は言った。
「もしかしたら、誰もが他の人間には見えない何かを見てるのかも知れないっすね。誰にも言わないだけで、それぞれが自分だけにしか見えない世界を見てるのかもしれない」
「つまり、私達は皆別の世界に住んでいるということか」
「そうです。絶対に理解しあえない隔絶された存在が人間なのかもしれないって、そう思うんすよ。俺達はどれだけ喘いでも有象無象に過ぎないんだ」
 思わず、唇が緩んでしまった。そうせずにはいられなかった。正直、嬉しい。
「有象無象か。それを聞くと、なんだかほっとするな」
「そうなんすか?」
「ああ。私は決して特別じゃない。化け物なんかじゃ……ない」
「当然です」言いながら、新田は立ち上がった。窓から差し込む光が逆光になって、新田の輪郭を浮かび上がらせる。おかげで、新田の表情が良く見えなくなってしまった。
「それでもやっぱり特別はあるんすよね。俺にとってあなたが特別な存在であるように、きっと皆小さな特別をたくさん持ってるんすよ」
 新田の声は柔らかい。見えずとも分かった。こいつは今、微笑んでいる。だから、私は頷いた。
「そうだな……」
 もう、許されても良い筈だ。私が小さな特別を見つけたくらいのことで、世界は変わりはしないのだから。
 それにしても――。
「お前は変な男だな。普通なら、闇が見えるなんて話は信じないぞ。あからさまに嘲笑うか、その場だけ信じたふりをして陰で笑うかだ。真剣に答えたりはしない。色々と苦労してきたんじゃないか? 人に騙されやすいだろう、お前」
「確かに騙されやすいっすねぇ。でも、三沢さん程苦しい思いしてないと思いますから。人を信じられないって、きついっすよね」
「私も特殊だが、お前もかなり特殊な人間だな」
 すると、新田はベッドに手を付き、私の方に顔を寄せた。光の中から抜け出てきた新田の顔には、予想した通り、最高の笑顔が浮んでいた。
「俺等って、本当に気ぃ合いますね」
 新田があの朗らかな笑い声を上げる。不覚にも、私も釣られて笑ってしまった。

エピローグ
 閉じた瞼に光が当たるのを、私は感じていた。
 遠くから聞こえてくる雀の鳴き声。すぐ側から聞こえてくる、不定期なブラインドの揺れる音。遠慮がちに入り込んでくる風は柔らかく、肩まで届く私の髪を揺らして、首筋を擽る。昼休みの社内は、就業時と同様に静かだった。違うのは静寂の質。今の静寂は緊迫感など欠片もない、穏やかな時だ。
「梨花さん」
 名前を呼ばれ、私は目を開けた。横を見ると、新田が私の顔を覗き込んでいた。
「そろそろ飯食いましょうよ。昼休み、終わっちゃいますよ?」
「ああ。そうだ、今日はちゃんと唐揚げを作ってきただろうな?」
 新田は胸を張り、右手に下げていた弁当袋を掲げて見せた。
「当然っすよ。抜かりなしっす」
「よし。じゃあ行くか」
 言って、私は立ち上がった。新田と一緒に歩き出し、私はそこで立ち止まる。
「どうしたんすか?」
「いや」
 言いながら、私は窓の方を振り向いた。
 ブラインドの傾斜は中くらい。日を完全に遮るわけでもなく、全て通すわけでもない。
 ブラインド越しに覗き込んだ外は、並行に等分された世界だった。そして、その向こうには、雲一つない青空が広がっていた。
[ 2013/05/26 00:50 ] 創作 | トラックバック(-) | CM(0)

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。